日本の強い集団意識のルーツは中世の村社会にあった!?
ニャンと室町時代に行ってみた 第3回
排他的意識を作り出す村人の団結
領主と渡り合うほど強い連帯感と政治意識を育む一方、惣は排他的な意識を育て〝よそ者″に対する警戒心を醸成するようになったのも事実でした。中世後期になると、旅人を泊めてはいけないという規定が、村掟に公然と記されるようになります。
こうした意識を育てた理由の一つは、惣村同士の争いにあります。近世の農村では、用水や山林・草刈り場などの入会地の利用をめぐって村同士が激しく争い、死者が出ることも珍しくありませんでした。村同士の紛争は何代にもわたって受け継がれることもあり、村の権利を守る戦いの中で、排他的な意識が強くなっていったと考えられます。もう一つは身分制に関わる問題です。当時、身分の上下を問わずケガレに対する意識が強くなり、異郷には鬼が住むという観念が浸透していきました。流浪する人々や漂泊の芸能者を卑しいものと見る意識も〝村意識″を強固にしていったと考えられています。
このことは反面、村を追われることの恐怖を人々に植え付けました。実際、村掟を破った人の刑罰といえば追放刑が一般的で、その後は家財も土地も没収され惣の管理下に置かれました。時には、さしたる理由もなく処刑されることもあったようです。その反省から、15世紀半ばの近江国菅浦では、むやみに財産を没収せず、できる限り子どもや親せきに継がせてようという村掟がつくられました。惣村全体の安定のためには、個々の家の存続が欠かせないと考えられるようになったのです。
戦国時代には、逃亡した農民が捨てた田畠を村の連帯責任で耕作する「惣作」の習慣も定着し、近世の農村社会に受け継がれます。江戸時代の村落というと「五人組」などの厳しい連帯責任制をイメージしますが、そのベースには農民が主体的に村を守り育ててく中世以来の慣習があったのです。
<『おかしな猫がご案内 ニャンと室町時代に行ってみた』コラムより>